選挙で選ばれた政治家が政策決定をするという意味での民主主義に対する失望や嫌悪は日本をはじめいろいろな国で聞かれます。しかし民主主義体制が世界の潮流となった現在、この政治のしくみをなんとかうまく使いこなすためのヒントを、「べき論」ではなく、比較政治学を中心とした社会科学における実証分析の蓄積から掘り出してきて一般の人に紹介しよう、というのがこのブログのねらいです。(1ヶ月に1回を目安に更新します)

2016年3月5日土曜日

憲法の権利規定は「絵に描いた餅」なのか?


 安倍首相が32日の国会で自らの任期中に憲法を改正したいとの希望を公言したことで、憲法改正問題が一層現実味を帯びてきました。自民党は党内に設置した憲法改正推進本部を中心に改正に向けて以前から活動しており、2012年には「憲法改正草案」を公表しています。自民党案への懸念は多岐に亘って指摘されていますが[1]、ここでは、人権保障に関する規定を取り上げます。
 そもそも、憲法における権利規定は実際に国民の権利保護につながっているのでしょうか。アメリカ憲法の父として知られるジェイムズ・マジソンは、これらは単なる「(羊皮)紙に書かれた障壁(parchment barriers)」(日本流にいうと絵に描いた餅)でしかないと言っています。実際の生活に影響がないのであれば、そもそも憲法改正議論のなかで取り上げる必要もないですよね。
 今回紹介するチルトンとヴァースティーグの研究は、人権規定の効果について実証的に検討したものです。彼らは、(1)政党を結成する権利、(2)労働組合を結成する権利、(3)集会の自由、(4)宗教の自由、(5)表現の自由、(6)移動の自由という6タイプの人権に関し、憲法条文が存在することで実際の当該分野での人権状況が向上するのかどうかを、186カ国の1946年から2012年の期間を対象に分析しています[2]。結論からいうと、「組織」に関連する権利の規定が含まれる場合には実際にもその分野の権利は守られやすく、一方で「個人」レベルの権利の場合には規定があっても実際には効果がみられない、というのが彼らの分析結果です。より具体的にいうと、上に挙げた6種の権利のうち、政党と労働組合結成に関する権利は実際にも政党・労組の保護を強く促し、表現および移動の自由に関する規定はほとんど効果がなく、集会および宗教の自由は政党・労働組合の場合ほど強くはないものの一定の効果がある、という結論です。これは、組織に関連する権利が侵害された際には市民による抵抗が(個人レベルの権利の場合よりも)社会問題となりやすく、結果として遵守されるよう働く、という理由によるものです。
 翻って自民党の2012年改憲案を読んでみると、チルトンらの論文で分析対象となっている6種類の人権はすでに盛り込まれているので、これらの権利に関しては憲法条文レベルでは特に不備はないといえるでしょう。
 一方、チルトンらの研究が日本に与える含意として、自民党案が「新しい人権」として掲げる規定についての指摘があります。自民党案では、個人情報の不当取得の禁止19条の2、国民への説明の責務(21条の2)、境保全の責務25条の2)、犯罪被害者等への配25条の4)が新しく盛り込まれています。これらは、個人レベルの権利という位置付けであり、チルトンらの理論を応用すると、仮にこれらの規定を含む新しい憲法が採択されても、実際の効果は低いのではないかと予測できます。国民のプライバシー権や知る権利を実効的に守るには、例えばですが、イギリス、インド、カナダ、ドイツ等で採用されている、これらの権利を保護する目的で設置された機関である情報委員会(information commission)の形成につながるような憲法規定を設けることが一案として挙げられます。

[出典] Chilton, Adam S. and Mila Versteeg (forthcoming) “Do Constitutional Rights Make a Difference?” American Journal of Political Science.



[1] 例えば以下が挙げられます。http://synodos.jp/politics/15542
[2] 分析手法としては傾向スコアを用いたマッチングによる回帰分析をしています。被説明変数のもととなっているのは、アメリカ国務省による世界各国での実際の人権保護状況に関する年次報告をもとにしたデータベースです。